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- 私はデザイナーであり、ブライダルコンサルタントなんです
- フラワーアレンジメントのなかでも、ブライダルフラワーに特化していらっしゃるのはどうしてですか?
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私がフラワーアレンジメントを習いだしたのは21歳のときですが、当時、これからの花嫁修業はフラワーアレンジメントであるという記事が目に飛び込んできて、ビビビッ! ときたからなんですね。見学に行った教室ではちょうど、ブライダルブーケを作っていました。ここに通えば自分のウエディングブーケを作れるのかぁ、自分の結婚式を好きな花で好きなように飾れたらいいなと思って習うことにしたんです。結婚願望が強くて、結婚式が目前に迫っていたこともあって、どんどんのめりこんでいきました。
もちろん願いは叶って、まずは自分の結婚式で作品デビューしました。でも、ブーケなど花嫁周りの花は自分の思いどおりにできたのですが、結婚式場や披露宴会場の装花は業者の独擅場で、式場が契約している花屋さんのお仕着せメニューから選ぶしかなかったんです。やらせてほしいなんて割り込む余地など皆無という時代でした。 結婚式の花全体を完璧に自分のテイストで飾れなかったことが非常に悔やまれて……。その残念な思いが、今日のトータル・ブライダルフラワー・プロデュースという仕事への道を切り開くことにつながったんだと思います。
花屋さんたちは自分たちもフラワーデザイナーだといいますが、私はデザイナーであり、ブライダルコンサルタントなんですよね。花屋なら誰にでもできるというアレンジではない、特殊技能なのだと自負しています。カップルと入念なコミュニケーションをはかり、潜在的なニーズまでを引っ張り出すことで、顧客満足の得られるフラワーデザインをしますから。それがだんだんホテルなどにも評価されるようになってきつつあります。僭越ながら、業界の仕組みを変えてきたと言って頂いてますし、ぜひKAORUKOにやってもらいたいと思われるようにブランド力を高め、これから花を習う人たちにとって先鞭になればと思っているわけです。
- もともとお花は好きだったのですか?
- 親に笑われたのですが、習って帰ってくると寝る間も惜しんで練習するくせに、水やりとか手入れには興味を示さないって。お花が好きというより、たぶんアートが好きなんだと思う。美大に進みたいと思ったこともあって、デッサンしたり、油絵はよく描いたりしていましたから。
二次元の絵の世界から、三次元の世界へ。表現手段としてはより魅力的なものを手に入れたような気がします。花を絵の具代わりに作品を作っているうちに、生の花の持っている生きているという表情の豊かさとか、可憐さ、おもしろさにどんどんはまっていくようになりました。
- 教室を持つようになった矢先、ご主人の地方転勤で辞めざるをえなくなりますね?
- あれほど憧れた結婚という魔法も、日常生活という現実の前にあっという間に色褪せてしまって、こんなはずじゃなかったという人生が始まります。薫子という一人の女性ですらなく、○○ちゃんのママ、○○さんの奥さんで一生終わるのは嫌だという思いが強くなっていきました。たしかに、結婚も子育ても大事だけど、このままでは精神的に鬱々、悶々とするにちがいないということだけは予測がつきましたから、教室を持つことは夢でした。だから、転勤は非常にショックでしたし、戻ってきて活動を再開できたときはものすごくうれしかったですね。
でも、今にして思えば、夢見る専業主婦の延長で仕事を始めたばかりのころは、子供の発熱を口実にしたり、ごめんなさいと謝ればすむと思っていた“甘ちゃん”でした。その程度だったから、いつか自己実現したいなんてことすら考えもしませんでした。
百恵ちゃん世代なんですよ、私。それがある段階から松田聖子になったわけ。ジェフもアランもなんて(ハハハ)、それは冗談だけど、すべてを手に入れるには、血のにじむような努力が必要なんですよ。苦労のない平凡で退屈な人生より、つらいこともいっぱいあるけど、その分、喜びも大きいという世界のほうがいい。そっちの魅力を、私は人一倍よくわかるつもりだし、その醍醐味に目覚めてしまったんです。
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- 夢を叶えるには、夢を持ち、叶うと信じてあきらめないことが大切
- やがて桂由美先生との出会いが訪れ、「揺れるブーケ」といったKAORUKOさんの出世作が生まれてくるわけですね。
- 何の世界でもそうだと思うのですが、どこで習うか、誰に教わるかは非常に大きいと思います。桂先生と仕事をご一緒させていただいたことは、その後の人生を左右するほど決定的なものでした。
たとえば先生の新作ドレスのデザイン画に合わせて、私なりに最高と思えるブーケを出したつもりでも、先生のあの一流の審美眼で、根底からボロクソにいわれてしまいます。どうしてこれがいけないの? なんでここを数ミリ直さなくちゃいけないの? 最初はまったく見えませんでした。でも、3年ほど食らいついて努力しているうちに、ダメ出しのポイントがドンピシャリとわかるようになったんです。
さらに、それに輪をかけて確信するようになったのがパリコレでの仕事です。ヘアもメイクも演出家も世界に通用する一流どころが集い、腕を競う舞台で、桂先生のみならず、それら全員で意見をもみあいトータルな美を追求する細かいダメ出しが何度も何度も飛ぶんです。ドレスの肩のふくらみや刺繍の位置、ヘアの乱れぐあいを、たとえば1mm膨らまして! とかチェックが入る。たったそれだけで格段によくなっていく様を、すぐそばにいて、リアルタイムで見せつけられたわけです。なるほど! 目から鱗。身体が震えるほどの体験でした。
ブーケだけが一人歩きして、いくら完成度が高くてもダメ。ドレスをはじめ、モデル、会場までも含めたトータル芸術としてのモノの見方という審美眼を養う絶好の機会となりましたね。まさに、一流とはこういうものかということを、一流の人たちによって教えられ、そして磨かれたビッグチャンスでもありました。
- その陰で、お子さんの登校拒否という大きな犠牲も払いました。
- いい奥さん、いいお母さんといわれたい、他人がつける成績表を気にするあまり、自分を見失っている人がいかに多いことか。私もまたそうでした。誰かの目を気にしてがんばる。それがホントに自分がやりたいことなの? 何をやっても、いつも賞賛と酷評が裏表にあるような世界。そんなところで一喜一憂してもしようがない。愛想笑いも、「薫子さんっていい人ね」と思われたいということも一切気にしない。そう割り切って、“腹八分目”ならぬ“人づきあい六分目”にしたら、とてもラクになったんです。
今ではたち直って自分で選んだ英国留学をしていますが、息子の不登校は私にそういうことを教えてくれたんです。
- スピリチュアルハッピーアドバイザーという肩書きをも持っていらっしゃいますね?
- たまたま出会った今をときめくスピリチュアルカウンセラーによって、専門のブライダルフラワー以外に、悩める人を癒し、導く仕事へと活躍の場が広がることを暗示されたんです。ここに至るまでの苦難と試練の人生のなかで、魂をどう磨いて生きていくべきかということを、誰に教わるでもなく、そういう考え方をしていたので、後半の人生は同じように悩んでいる人たちのための活動が広がっていくのが見えるって。その直後からですね、執筆・講演などの依頼が増えてきました。
だからかしらね、教室はフラワーアレンジメントを習いに来る生徒さんたちにとって技術習得の場であるだけでなく、人生相談に来ているの?と思うくらい「おかげで生きる勇気がわきました!」という感謝の言葉が飛び交う場にもなっているんです。
そういう人たちに向け、「想いはきっと叶う、だから決してあきらめてはいけない」ということを訴えたいんです。純粋に真摯な気持ちで、ただ目の前にあることに一生懸命ひたむきに取り組んでいると、やがて道はひらけるんです。名声とか、打算とかがちょっとでも頭をかすめると絶対にダメ。
思い通りにならないこともたくさんあります。挫折もするでしょう。でも、転んでも、笑われても、かっこ悪くてもいい。立ち上がってもう一歩踏み出す。自分の心さえ負けなければ、確実に道はつながっているものです。人生に起こることにはすべて必然的な意味があるんです。
だから、自分の人生にいまいち自信とか誇りを持てない、夢をどうやってつかんでいったらいいのかわからない、そんな人たちに、声を大にしていいたい。
夢を叶えるには、夢を持ち、叶うと信じてあきらめないことが大切、と。
- ところで、タイトルになっている“アール・ドゥ・ヴィーヴル”とは、どういう意味ですか?
- 英語では“アート・オブ・ライフ”ということですが、18世紀フランスの貴族階級から生まれた考え方といわれておりまして、会話や立ち居振る舞いなどをも含め、生活を洗練させていくことを意味します。
これまでの生き方や仕事を通して感じたり出合ったりした、アール・ドゥ・ヴィーヴルなライフスタイル。たとえば「言葉遣いのきれいな人は間違いなくいい印象を人に与える、だから自分が素敵だと思う人の言葉遣いから真似てみる」とか、「何かひとつでもいいから、自分が心から好きと思えるものを部屋に置いてみる」とか、すぐに実践できそうなことをいろいろ提案しています。それらのなかに、自分が自分であるために、凛として生きるためのヒントがあるはずです。
かつての私と同じように、心の中に闇を抱えて悩んでいる人たちにとって、淡い蝋燭でもいい、ほのかな光になれればいいな、そんな思いをこめて、私の体験をもとにエールを送りたいと思います。
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